歴史の回想・岩崎弥太郎
Description:... 岩崎弥太郎(1835~1885)
明治期の実業家。三菱財閥の創設者。土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の岩崎弥次郎の長男で,弟は弥之助。母は美和。伯父の岡本寧浦の塾である紅友社で歴史と漢詩を学び,次いで江戸の儒官である安積艮斎の私塾,さらに高知城外の吉田東洋の少林塾で治国経世の理論を学んだ。安政6(1859)年に長崎に出張し,さらに慶応3(1867)年に藩営商社開成館の長崎商会に派遣され,艦船,武器の買い付けと土佐物産の輸出について欧州の各商社とわたりあい,事業家としての腕を磨いた。維新後の明治3(1870)年に開成館は九十九商会という私商社となり,3隻の藩船を利用して海運と通商を行い,三川商会を経て6年3月に三菱商会と改称したが,この時点で弥太郎の経営権と所有権が確立した。7年に本店を東京に移し,8年に郵便汽船三菱会社と改称した。 佐賀の乱(1874)から西南戦争(1877)まで,西日本で相次いで起こった内乱や,征台の役(1874),江華島事件(1875)において,新政府の要請に応じて三菱会社の船で兵員と軍需品を現地に輸送し,政府軍の勝利に貢献した。その見返りとして三菱会社は政府の船の払い下げや委託を受け,10年には汽船61隻(国内隻数の73%)を所有して日本海運界の王座についた。この過程で日本国郵便蒸汽船会社,P.O.汽船会社(英国),太平洋郵船会社(米国)などの内外のライバルを撃破し,また大久保利通や大隈重信らの政府実力者と関係を深め,政商としてのし上がっていった。 しかし三菱の海運業の独占が高まると,これを非難する世論が高まり,三井が中心になって14年に東京風帆船会社を設立して三菱を追撃した。「海坊主退治」の世論のもとにさらに壱六年には共同運輸会社が創設され,三菱と同社は値下げを繰り返して死闘を続けた。西郷従道農商務卿が「三菱の暴富は国賊同様なり」と非難すると,弥太郎は「我を国賊と呼ぶか,政府が果してその方針ならば,我も亦所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼き払い,残りの財産は全部自由党に寄附せん。かくなれば薩長政府も忽ち顛覆するであろう」とやり返したという。しかし共倒れの恐れが強まったので,政財界首脳部の斡旋により両社は合併して18年に日本郵船会社が成立し,三菱の有力傍系会社になった。 弥太郎が手がけた事業は他に吉岡銅山(1873),三菱製鉄所(1875),三菱為替店(1880),千川水道(同),高島炭坑(1881)があり,また東京海上保険(1878),貿易商会(1880),明治生命(1881),日本鉄道(同)などへ出資し,財閥の基礎を築いた。政商としての実力のほかに豪気なワンマン型,繊細な組織型の両面を併せ持つ名経営者であった。妻喜勢との間に5子があり,長男久弥は弥之助のあと三菱財閥3代目当主となった。
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