Description:... 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。 1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)駐屯軍を増強、豊台(ほうだい)にも駐屯するなど、北平(ペイピン)(北京)に対する圧力を強めていた。盧溝橋は、北平の南西15キロメートル、豊台の西3キロメートル、平(京)漢線鉄橋のやや下流に位置し、中国軍の守る要衝の地であった。 7日夜、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、盧溝橋北西約1キロメートルの永定河(えいていが)右岸竜王廟(りゅうおうびょう)付近で夜間演習中、10時半ごろ、日本軍の軽機関銃の発射(空砲)に続き、竜王廟方面から小銃による実弾数発の射撃があり、さらに日本兵1名行方不明という事態が発生した。同兵は20分後に帰隊したが、この点は北平の連隊本部にただちには伝えられなかった。翌8日午前3時過ぎ、再度竜王廟方面に銃声があったことから、北平の牟田口(むたぐち)連隊長により、午前4時23分に攻撃命令が出された。交戦状態への突入は5時半、盧溝橋につながる宛平(えんぺい)県城での両軍代表による交渉の最中であった。 8日、中国共産党は、華北の防衛、全民族の抗戦を訴える通電を発し、国民政府も10日夜、日本に抗議した。現地では、9日の停戦の合意にもかかわらず、10日夜ふたたび交戦状態に突入した。一連の戦闘で中国の民衆多数が日本軍によって殺傷された。11日夜8時、現地では停戦協定が成立したが、これより先、同夕6時過ぎ日本政府は「華北派兵声明」を発表、すでに全面戦争へ向けての重大な一歩を踏み出していた。
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)
1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。
1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)駐屯軍を増強、豊台(ほうだい)にも駐屯するなど、北平(ペイピン)(北京)に対する圧力を強めていた。盧溝橋は、北平の南西15キロメートル、豊台の西3キロメートル、平(京)漢線鉄橋のやや下流に位置し、中国軍の守る要衝の地であった。
7日夜、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(中隊長清水節郎大尉)は、盧溝橋北西約1キロメートルの永定河(えいていが)右岸竜王廟(りゅうおうびょう)付近で夜間演習中、10時半ごろ、日本軍の軽機関銃の発射(空砲)に続き、竜王廟方面から小銃による実弾数発の射撃があり、さらに日本兵1名行方不明という事態が発生した。同兵は20分後に帰隊したが、この点は北平の連隊本部にただちには伝えられなかった。翌8日午前3時過ぎ、再度竜王廟方面に銃声があったことから、北平の牟田口(むたぐち)連隊長により、午前4時23分に攻撃命令が出された。交戦状態への突入は5時半、盧溝橋につながる宛平(えんぺい)県城での両軍代表による交渉の最中であった。 8日、中国共産党は、華北の防衛、全民族の抗戦を訴える通電を発し、国民政府も10日夜、日本に抗議した。現地では、9日の停戦の合意にもかかわらず、10日夜ふたたび交戦状態に突入した。一連の戦闘で中国の民衆多数が日本軍によって殺傷された。11日夜8時、現地では停戦協定が成立したが、これより先、同夕6時過ぎ日本政府は「華北派兵声明」を発表、すでに全面戦争へ向けての重大な一歩を踏み出していた。
به شما اطمینان می دهیم در کمتر از 8 ساعت به درخواست شما پاسخ خواهیم داد.
* نتیجه بررسی از طریق ایمیل ارسال خواهد شد
شماره کارت : 6104337650971516 شماره حساب : 8228146163 شناسه شبا (انتقال پایا) : IR410120020000008228146163 بانک ملت به نام مهدی تاج دینی