برای ثبت درخواست به انتهای صفحه مراجعه کنید.

歴史の回想・広田弘毅

Description:...

広田弘毅(ひろたこうき)(1878―1948)

昭和期の外交官、政治家。明治11年2月14日福岡県に生まれる。生家は貧しい石屋。若いとき玄洋社(げんようしゃ)に出入りし、その影響を受けた。東京帝国大学法科卒業後、外務省に入り、欧米局長、駐蘭(らん)公使を務め、1930年(昭和5)駐ソ大使となった。1933年9月斎藤実(さいとうまこと)内閣の内田康哉(うちだやすや)外相が辞任したのち外相となり、「満州国」の発達完成、「外侮を蒙(こうむ)ることなき」程度の軍事力の充実、外交手段による方針の貫徹などを内容とする新しい外交方針を決定した五相(首・外・陸・海・蔵)会議に参加した。1934年中国に対する欧米の共同援助に反対する方針などを固め、中国駐在の有吉明(ありよしあきら)公使に秘密裏に伝えたが、天羽英二(あもうえいじ)外務省情報部長がこれを非公式の談話として発表(天羽声明)、列国の激しい反発を引き起こした。同年岡田啓介(おかだけいすけ)内閣にも外相として留任し、「協和外交」を唱えて1935年中国との大使交換を実現した。一方、排日停止、「満州国」承認、共同防共を中国に要求する広田三原則を決定し、駐華イギリス財政使節リース・ロスによる対華共同借款の提案や中国の幣制改革に反対し、陸軍の華北分離工作を黙認するなど、中国の経済建設の妨害と中国侵略のために一役を買った。1936年の二・二六事件後、首相となり広田内閣を組織した。1937年6月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相となり、日中戦争を迎えたが、戦争の拡大に反対せず、翌1938年1月「国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」との強硬方針の決定に加担、日中戦争の泥沼化をもたらし、まもなく外交転換のため更迭された。1940年以降、重臣会議に参加し首相推薦に関与。1945年戦争終結のためソ連の仲介を求めて広田・マリク(駐日大使)会談を行ったが失敗した。敗戦後A級戦犯容疑者とされ、1948年(昭和23)11月極東国際軍事裁判で文官中ただ1人絞首刑の判決を受けた。昭和23年12月23日刑死。エリート外務官僚であったが、政治家としては無力で静観主義をとり、軍部に追随した。

Show description

* ایمیل (آدرس Email را با دقت وارد کنید)
لینک پیگیری درخواست ایمیل می شود.
شماره تماس (ارسال لینک پیگیری از طریق SMS)
نمونه: 09123456789

در صورت نیاز توضیحات تکمیلی درخواست خود را وارد کنید

* تصویر امنیتی
 

به شما اطمینان می دهیم در کمتر از 8 ساعت به درخواست شما پاسخ خواهیم داد.

* نتیجه بررسی از طریق ایمیل ارسال خواهد شد

ضمانت بازگشت وجه بدون شرط
اعتماد سازی
انتقال وجه کارت به کارت
X

پرداخت وجه کارت به کارت

شماره کارت : 6104337650971516
شماره حساب : 8228146163
شناسه شبا (انتقال پایا) : IR410120020000008228146163
بانک ملت به نام مهدی تاج دینی

پس از پرداخت به صورت کارت به کارت، 4 رقم آخر شماره کارت خود را برای ما ارسال کنید.
X